佐助にとって春琴の象徴的な意義——『春琴抄』の中に恆常的な美

馬健桐 201803080041

一、はじめに

『春琴抄』本書を読み終わると、筆者が佐助にとって春琴の象徴的な意義は美人で三味線の玄人だけの侷限的な存在を超えていて、更に重要な信仰¹にもなると考えている。佐助にとって春琴の象徴的な意義を明らかにして、『春琴抄』本書の主題思想と美學観念をよりよく理解するために、筆者が『春琴抄』の本文に基づいて、論題に関わっている先行研究を參考して、自分の考えを整合して、この論題を論じている。

二、論題に関わっている先行研究の結論を參考する

「佐助は春琴を崇拝する幻影の中で、倫理の選択の揺れ動くことから、春琴を斷固として追う倫理選択まで、つまり身分倫理を維持して、家庭倫理を放棄する。」²春琴が身分倫理を堅持しているからこそ、春琴への崇拝を徹底するために、佐助は春琴の妻としての家庭倫理を斷固放棄し、春琴の弟子としての地位倫理に従うことを選択したのである。「『春琴抄』における美は,現実によって損なわれることこそあれ,その本質はどこまでも理想的であり,外形の変化によって影響を受けるものではない。いわば現実が美を規定するのではなく,美が現実を規定するのである。」³春琴は、外的條件や現実の生活に影響されない永遠の美を象徴している。そのため、美貌を失った後も、佐助は絶対的な信仰を捨てず、逆に自分の目を突き刺してこの美しさを守り続けている。「一方『春琴抄』においては,佐助は春琴に対し,彼女の自尊心を傷つけまいとして自分の目を潰したのだと告げている。言うなれば,谷崎は『春琴抄』において,醜悪な現実すらも見目麗しく塗り替える美への執念を世に問うたのだといえよう。」⁴春琴はあらゆる醜悪な現実を無視するほどの清新で俗離れした美を象徴しており、佐助は心から自分の目を潰して永遠の春琴を信仰し続けている。「佐助にとって、春琴は崇拝すべき師であったが、それは彼女の美貌あってのものであり、春琴からそれが欠けてしまえば、彼女の価値はなくなってしまう。佐助は、春琴の美貌を永遠なものにすべくあらゆる手段を考える。しかし、答えはついに一つしかなく、それは佐助自身が盲目になることであった。」⁵佐助が信じているのは外在的な意味での春琴という人ではなく、彼の心の中にある恆常的な春琴である。さもないと、春琴の美しさが失われる前に、佐助は春琴の美しさで春琴を信仰することが當然だったが、春琴の美しさが失われた後、春琴はもう魅力がなくなった。どうして佐助はまた春琴を信じ続けて、自分の目を突き刺してしまうのであるか。

三、論題に関わっている『春琴抄』の本文を解釈する

1.佐助の思い出の部分

「しかるに検校が父祖代々の宗旨を捨てて浄土宗に換えたのは墓になっても春琴女の側を離れまいという殉情から出たもので。」佐助にとって春琴は自分の元の宗教信仰より重要な信仰であるこそ、佐助はこうすることができる。

「春琴の閉じた眼瞼が姉妹たちの開いた瞳より明るくも美しくも思われてこの顔はこれでなければいけないのだこうあるのが本來だという感じだした。」佐助にとって春琴の閉じた眼瞼は欠陥ではないだけでなく、かえってちょうど良くて美しいことである。従って、佐助は春琴が愛している理由は単なる生理的な外見ではなくて、ある自分の心から流す春琴への幻想も非常に役に立つ。そのとおりに佐助にとって完璧な春琴の形象が心に存在している。

「後日佐助は自分の春琴に対する愛が同情や憐愍から生じたという風に言われることを何よりも厭いそんな観察をする者があると心外千萬であるとした。わしはお師匠様のお顔を見てお気の毒とかお可哀そうとか思ったことは一遍もないぞお師匠様に比べると眼明きの方がみじめだぞお師匠様があの気象とご器量で何で人の憐れみを求められよう佐助どんは可哀そうじゃとかえってわしを憐れんで下すったものじゃ、わしやお前達は眼鼻が揃っているだけで他の事は何一つお師匠様に及ばぬわしたちの方が片羽ではないかと雲った。」佐助の心は抽象的な春琴を絶対の標準としているからこそ、佐助は春琴の顔を見て気の毒とか可哀そうとか思ったことは一遍もなくて、かえって眼鼻が揃っているだけで他の事は何一つお師匠様に及ばぬ彼たちの方が片羽ではないかと雲う。

2.春琴は顔が火傷する前の部分

「彼は無上の光栄に感激しながらいつも春琴の小さな掌を己れの掌の中に収めて十丁の道のりを春松検校の家に行き稽古の済むのを待って再び連れて戻るのであった。」佐助はただ春琴の掌を觸れて、一緒に春松検校の家を通って、どうして無上の光栄に感激してるか。佐助にとって春琴が無上の信念であるから。

「佐助は彼女の笑う顔を見るのが厭であったというけだし盲人が笑う時は間が抜けて哀れに見える。」そんなに春琴が愛している佐助はどうして盲人である春琴の笑う顔を見るのが厭であるか。ここに書いてある「盲人が笑う時は間が抜けて哀れに見える」とは外観の理由としているが、本質的な理由は佐助の心に春琴が一切世間な俗っぽい現象を越える至高な存在である。従って、佐助は実際生活に信仰としての至高な春琴の様子を離れるそんな平凡な春琴の笑う顔を見るのが厭である。

「佐助は絶えず春琴の顔つきや動作を見落さぬように緊張していなければならずあたかも注意深さの程度を試されているように感じた。」佐助はどうしてそんな冷酷な試練を受けても諦めるか。佐助はこの中に恆常な美感を體験して、楽しさも感じられるのであるから。

「佐助もまたそれを苦役と感ぜずむしろ喜んだのであった彼女の特別な意地悪さを甘えられているように取り、一種の恩寵のごとくに解したのでもあろう。」佐助にとって、春琴が彼の最高の信仰ではなかったら、彼はどうして春琴の意地悪さを恩寵として受け取るか。

「春琴の習っている音曲が自然と耳につくようになるのも道理である佐助の音楽趣味はかくして養われたのであった。」人を愛すればその人に關係ある物すべてを愛するようになる。ここでは佐助もこのようにしている。従って、佐助は春琴を愛している。

「後年盲人となり検校の位を稱してからも常に自分の技は遠く春琴に及ばずと為し全くお師匠様の啓発によってここまで來たのであるといっていた。」春琴を自身を越える最高な信仰としていたこそ、佐助は自分の技が遠く春琴に及ばすと信じる。

「ただ春琴に忠実である餘り彼女の好むところのものを己れも好むようになりそれが昂じた結果であり音曲をもって彼女の愛を得る手段に供しようなどの心すらもなかったことは、彼女にさえ極力祕していた一事をもって明かである。」佐助は自分の信仰に完全に屈している。

「しかし佐助はその暗闇を少しも不便に感じなかった盲人の人は常にこう雲う闇の中にいるこいさんもまたこの闇の中で三味線を弾きなさるのだと思うと、自分も同じ暗黒世界に身を置くことがこの上もなく楽しかった後に公然と稽古することを許可されてからもこいさんと同じにしなければ済まないと雲って楽器を手にする時は眼をつぶるのが癖であったつまり眼明きでありながら盲目の春琴と同じ苦難を嘗めようとし、盲人の不自由な境涯を出來るだけ體験しようとして時には盲人を羨むかのごとくであった。」もし最高信仰の指示ではなかったら、佐助はどうやって盲人の不自由な生活を楽しんでいるか。

「佐助は天にも昇る心地して丁稚の業務に服する傍日々一定の時間を限り指南を仰ぐこととはなりぬ。」この効果を生まれるのは信仰だけである。

「時によるとこの幼い女師匠は『阿呆、何で覚えられへんねん』と罵りながら撥をもって頭を毆り弟子がしくしく泣き出すことも珍しくなかった。」こんな亂暴な行為に対して、普通な人はどうやって飴のように甘受しているか。

「佐助も泣きはしたけれども彼女のそういう言葉を聞いては無限の感謝を捧げたのであった彼の泣くのは辛さを怺えるのみにあらず主とも師匠とも頼む少女の激勵に対する有難涙も籠っていた故にどんな痛い目に遭っても逃げはしなかった泣きながら最後まで忍耐し『よし』と雲われるまで練習した。」春琴への信仰は普通な人とした佐助の心理狀態を歪めた。

「口やかましく叱言を雲うのはまだよい方で黙って眉を顰めたまま三の絃をぴんと強く鳴らしたりまたは佐助一人に三味線を弾かせ可否を雲わずにじっと聴いていたりするそんな時こそ佐助は最も泣かされた。」佐助に対して、信仰を感じらない迷いは信仰に苦しめられるよりも彼を苦しめる。

3.春琴は顔が火傷した後の部分

「肉體の関係ということにもいろいろある佐助のごときは春琴の肉體の巨細を知り悉して剰す所なきに至り月並の夫婦関係の夢想だもしない密接な縁を結んだのである。」佐助が春琴に対する絶対的な信仰を貫いているこそ、僕である佐助が主人である高貴な春琴とこんなに密接な縁を結でいることができる。

「晩年鰥暮らしをするようになってから常に春琴の皮膚が世にも滑かで四肢が柔軟であったことを左右の人に誇って已まずそればかりが唯一の老いの繰り言であったしばしば掌を伸べてお師匠様の足はちょうどこの手の上へ載るほどであったと雲い、また我が頬を撫でながら踵の肉でさえ己のここよりはすべすべして柔らかであったと雲った。」春琴は死んだが、佐助の心の中の春琴は死なない。従って、佐助にとって春琴は恆常的な信仰である。

「俄盲目の怪しげなる足取りにて春琴の前に至り、狂喜して叫んで曰く、師よ、佐助は失明致したり、もはや一生お師匠様のお顔の瑕を見ずに済むなり、まことによき時に盲目となり候ものかな、これは必ず天意にて侍らんと。」自分の最高の信仰に獻身するため、佐助は自分の體の破損を気にしないだけでなく、むしろこのような自傷行為を楽しみにしている。

「ある朝早く佐助は女中部屋から下女の使う鏡臺と縫針とを密かに持って來て寢牀の上に端座し鏡を見ながら我が眼の中へ針を突き刺した。」佐助にとって春琴が自分の眼より大切な信仰である。

「佐助はこの世に生れてから後にも先にもこの沈黙の數分間ほど楽しい時を生きたことがなかった。」信仰は佐助に空前の楽しみを與える。

「佐助は今こそ外界の眼を失った代りに內界の眼が開けたのを知りああこれが本當にお師匠様の住んでいらっしゃる世界なのだこれでようようお師匠様と同じ世界に住むことが出來たと思った。」お師匠様と同じ世界に住むことが佐助の今までの夢である。

「二た月前までのお師匠様の円満微妙な色白の顔が鈍い明りの圏の中に來迎仏のごとく浮かんだ。」佐助にとって春琴は信仰として來迎仏のような神様である。

「佐助痛くはなかったかと春琴が雲ったいいえ痛いことはござりませなんだお師匠様の大難に比べましたらこれしきのことが何でござりましょう。」春琴のすべては佐助の標準である。

「あ、あり難うございますそのお言葉を伺いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換えられませぬお師匠様や私を悲嘆に暮れさせ不仕合わせな目に遭わせようとした奴はどこの何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると雲うなら私はそれを見ないばかりでござります私さえ目しいになりましたらお師匠様のご災難は無かったのも同然、せっかくの悪企みも水の泡になり定めし其奴は案に相違していることでござりましょうほんに私は不仕合わせどころかこの上もなく仕合わせでござります卑怯な奴の裏を搔き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござります。」佐助にとって、春琴に対する信仰以外何も大したことはない。

四、まとめ

原文に関する語句の解釈を通して、関連の先行研究を參考にして、『春琴抄』の中で佐助は春琴に対して永遠の信仰を抱いていると考えている。このような信仰は客観的な條件の制限を受けない絶対服従であり、ある神祕主義⁶の意味を持っている。このような信仰している人と信仰されている人の関係によって佐助と春琴二人は他人に奇妙な関係を感じさせながら生きていくことができる。特に佐助にとっては、春琴に対する無條件の信仰の下で、自分の虐待と自傷の體験は自己価値の実現の重要な道としている。つまり、自分が信仰している春琴に改造されて、普通の人としての「可哀そうな自分」を消していくことで、自分の信仰として春琴の永遠の美に段々近づいてくる。谷崎潤一郎が日本の古典美學に復帰した名作として、『春琴抄』は日本の美學と日本人の心理的特徴を研究する上で重要な意義を持っているに違いない。春琴という「永遠の女性」のイメージは、當時の日本文壇に新鮮な空気をもたらしただけでなく、今の日本の美學界と唯美主義者を鼓舞し、神祕的で高尚な古典美學を見せて伝承し続ける可能性をも持っている。佐助は美の道に殉じる人として、商業の雰囲気に満ちた現代文化を裏切って、完全に無視しているに違いない。當時は別種とも言われていたが、今の文學界ではもっと作りにくいである。文學研究界は『春琴抄』に対する研究が深化し、現代人が深くその精神気質に感化される価値を捉えるにつれて、文學界は俗物主義の俗流文學に反抗する強大な力を迎えているだけでなく、現代人もまた美學的な精神信仰を新たに拾い上げることができる可能性もあると考えている。金銭至上主義の奴隷にならなくて、自分の心に詩的で美的な浄土を守っている。筆者も関わっている研究が新たな一章を迎えることを心から期待している。

注釈:

1.『デジタル大辭泉』によると、「信仰」は二つの意味がある。ここには、「信仰」の意味が「特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。」である。

2.原文は中國語版の參考文獻[2]から抜く「而佐助則是在崇拜春琴的幻影中,從倫理選擇的搖擺不定,到堅定追隨春琴的倫理選擇,即維持身份倫理,放棄家庭倫理。」のである。筆者がこれを訳した。

3.日本語版の參考文獻2.  p14

4.日本語版の參考文獻2.  p14

5.日本語版の參考文獻3.  p78

6.『デジタル大辭泉』によると、「神祕主義」の意味が「神や絶対的なものと自己とが體験的に接觸・融合することに最高の価値を認め、その境地をめざして行為や思想の體系を展開させる哲學・宗教上の立場。」である。

參考文獻

日本語版:

1.『春琴抄』谷崎潤一郎  新潮社  昭和26年

2.清水勇樹  2015年  「美的世界の喪失と再構築-谷崎潤一郎『春琴抄』におけるハーディ翻訳-」  『文學研究論集』  2015年第43號  明治大學學術成果リポジトリ

3.野崎沙織  1995年  「<卒論>『春琴抄』論」  『日本文學誌要』  第52巻  法政大學學術機関リポジトリ

中國語版:

[1]谷崎潤一郎.春琴抄[M].林少華,譯.北京:中國宇航出版社, 2018.

[2]陳文麗. 論文學倫理學視角下《春琴抄》中的春琴形象[J].佳木斯大學社會科學學報,2020,38(2):119-120.

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